主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、
自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は、見るからに好ましく、
食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、
また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、
触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、
神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、
目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、
律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、
アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。
一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、
なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、
多くの人に豊かに注がれるのです。
この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。
裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、
恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、
無罪の判決が下されるからです。
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、
なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、
一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、
一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、
“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、
世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
すると、イエスは言われた。
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。