2023年2月19日(日) A年「年間第7主日」

-> 朗読箇所参照

協力司祭 安鎭亨(アン・ジンヒョン)

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。 」(マタイ5章20節)

先週の主日の福音朗読はモーセ五書と預言書に書いてある守るべき掟、すなわち律法についてのイエスの厳しい話の場面でした。 律法を文字通りに守ればそれで十分、それでいいのだ、と思っている人々に対してイエスは律法の精神を語りました。 律法の精神についての教えは全く新しいものではないですが、もう皆がその精神を失っていたので、新しい教えのように聞こえました。 そしてイエスは律法の完成についても、次のように言いました。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。 廃止するためではなく、完成するためである。 はっきり言っておく。 すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 」(マタイ5章17〜18節)

今日の福音朗読は先週の続きで、イエスの志がはっきりと現れます。 律法さえ守れば救われるが、守らなければ滅びる、あるいは神様から呪われると思っていた人々に対して、イエスは裁きより和解を、憎しみより哀れみを語り継ぎます。 それを通して怒りをはるかに超える神様の愛を人々に示されます。 この神様の愛こそ、律法を完成して下さる恵であることをイエスは伝えます。 そして「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃった通り、十字架上で自分の語られたことを成し遂げます。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。 」(ルカ23章34節)

律法の精神についてのイエスのせき立てはまだまだ続きます。 徴税人でも、自分を愛してくれる人を愛しているではないか。 異邦人でさえ、自分の兄弟だけ挨拶しているではないか。 そしてイエスの一声が響きます。 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 」(マタイ5章48節)

ルカによる福音書の同内容の個所では、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。 」(ルカ6章36節)と記されていますが、今日の福音朗読のマタイによる福音書に表す「完全」の意味を一緒に黙想したいと思います。 完全と完璧はちらりと同じ風に聞こえますが、完全な者と完璧な者にして考えたら、少しその差が出ます。 天の父が完璧であられても、私たちは完璧な者にはなることができないからです。

イエスの時代に完全な者とされたのは、たった二人しかいなかったと思います。 その二人は天地創造の時から善悪の知識の木の実を食べる前までのアダムとエバ、最初の人間でした。 しかし彼らは罪を犯して神様の似姿として創造された恵、その完全性を失ったのです。 それなら、完全な者とは誰のことでしょう。 それは神様がまたこの世にお遣わしになった新しいエバと新しいアダム、すなわち聖母マリアと神の子イエスキリストのことです。

神様は、アダムとエバの不従順によって人類が失った恵を、聖母マリアとイエスキリストの従順によって新たにしてくださいました。 人となられた神の子はその生と死を通して私たちにいのちをもたらし、暗やみの中で倒れた世界、死の淵に沈んでいた人類を解放してくださいました。 罪のほかにすべてにおいて私たちと同じものになったイエスキリストを通して、弟子になり、友となり、究極的にはその兄弟姉妹になった私たちは、神様を天の父と呼ぶことができる一つの家族になりました。 父子相伝、父子相承という言葉のように、私たちも天の父が完全であられるように完全な者となるように、今週も頑張って生きましょう。