2023年3月19日(日) A年「四旬節第4主日」

-> 朗読箇所参照

主任司祭 山口 一彦

【聖書朗読前】

今日の福音書は、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒(いや)してくれる話です。 長い話なので、お手元の「聖書と典礼」は省略された形で掲載されていますが、4頁下段には「長い形を読むこともできる」とあります。 非常に大切な場面なので、今日は全文を省略しないで朗読いたします。

【聖書朗読後】

今日は四旬節第4主日です。 教会では伝統的に「バラの主日」あるいは「レターレの主日」と呼びます。 「レターレ」というのは「喜べ」という意味のラテン語です。 ミサが始まる時に皆さんで唱えた「入祭唱」の中にも、「喜べ」という言葉が2回繰り返されていますよね。 今朗読した福音書の最初のほうで、イエス様はこんなことをおっしゃっています……「わたしは、世にいる間、世の光である」……イエス様は、目が見えなくて暗闇の中を彷徨(さまよ)っている人に光をもたらす方です。 その方が私たちの元にもいらっしゃっている。 だから、喜びなさい。 これが今日のミサのテーマです。 ですから四旬節の最中なのに、私はバラ色の祭服を着ています。 このバラ色は、喜びを表しているんですね。

福音書の最初の所で、弟子たちがイエス様にこんなことを尋ねています……「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。 それとも、両親ですか」……今、私たちはミサに参加して、心を神様に向けている状態ですから、この言葉を聞くと、「なんてくだらない質問なんだろう、そんな訳ないじゃん」と思いますよね。 でも、自分一人になって、自分の部屋で一人悩むことはありませんか。 自分が生まれつき持っている欠点とか、障がいとか、病気とか、不幸な境遇とかに、一人悩んで、こんなふうに思い詰めたことはないですか……「なんで自分は、こんな目に遭うんだろう」「自分の何がいけなかったんだろう」……でも、生まれつきのことについて、その本人に責任がないことは、ちょっと考えれば誰でも分かることです。 そこで、仏教的な輪廻転生(りんねてんしょう)を持ち出して、私は前の人生でよっぽど悪い事をしてしまったんではないか、その報いを今受けているんだ、なんて考える。 いわゆる「因果応報」の考え方ですね。 聖書に登場するユダヤ人たちには、そんな考え方がありませんから、前世の罪の代わりに、親の罪を持ち出しています。 いずれにしても、自分ではどうしようもない問題にぶち当たった時、人は自分ではどうしようもないことを原因にして、絶望に沈んでしまいます。 これは、生まれつきの問題だけではありませんよね。 人生の途中で大きな問題に直面してしまった時にも、私たちは同じような迷路に落ち込んでしまいます。 自分の不幸や惨めさを数え上げて、絶望してしまう。

誰しもが抱えるこの根本的な問題に対して、イエス様はこうお答えになっています……「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである」……この御言葉は、皆さんも是非、心に留めておいて下さい。 『聖書と典礼』では省略されているのが残念です。 是非、ご自宅に帰ったら、聖書で確認して下さい。 私たちが人生の大問題に直面した時、その試練を乗り越えるために大きな力を与えてくれる御言葉だと思います。 イエス様の言葉通り、生まれつき目が見えないこの人に、神様の御業が現れます。 癒しの奇跡がおこなわれます。 その時の様子を、聖書はこんなふうに描いていますね……「イエスは地面に唾(つば)をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 そして、『シロアム――「遣わされた者」という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。 そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」……聖書の他の場面でも、イエス様は何回か目の見えない人を癒していますが、土をこねているのはここだけです。 このイエス様の行動には、どんな意味があるんでしょうか。 旧約聖書の冒頭部分、創世記の2章に、こんな記述があります……「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」……神様は土をこねて、最初の人間アダムをお造りになったんですね。 ここと関連づけて読むと、今日の御言葉の深い意味が分かってきます。 つまり、イエス様は土をこねることで、この目の見えない人を「新しい人」として造り直しているんです。 というか、この人の人生でおこなわれている神様の創造の御業を、完成させているんですね。 単純に、肉体的な視力が回復した、という話ではなくて、この世での本当に大切なことが見える人になったんだ、ということです。 まぶたに泥(どろ)を塗られた顔は、さぞ滑稽(こっけい)だったことでしょう。 シロアムの池に向かう途中、この人はみんなから嘲りの笑いを受けたかもしれません。 でも、神様に遣わされたイエス様によって、今度は目の見えなかったこの人が、神様に遣わされた者とされたんですね。

この神様による癒しの奇跡を、ファリサイ派を始めとするユダヤ人たちは、認めようとしません。 「安息日の掟(おきて)を破って労働しているのだから、神の元から来た者ではない」という屁理屈(へりくつ)で、癒された人の証言を抹殺(まっさつ)しようとしています。 そして、この人を「外に追い出した」とあります。 これは単に、「その場から追い出した」という意味だけではありません。 ユダヤ教の祈りを捧げる会堂から追い出した、ユダヤ人共同体から追放した、ということです。 癒される前のこの人は、会堂の入口で物乞いをしていました。 惨めな生活ですけど、それでもいくらかは社会とつながりを持っていたことになります。 でも、癒されたことで、今度は社会とのつながりを失ってしまいました。 今日の福音書の中には、こんな言葉もあります……「ユダヤ人たちは既(すで)に、イエスをメシアであると公(おおやけ)に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」……今日読んでいるのは、ヨハネによる福音書です。 この部分が書かれた当時、使徒ヨハネの共同体は、ローマ帝国からものすごい迫害を受けていました。 目が見えるようになって、イエス様のことを「預言者です」と宣言したこの人の姿は、この世から試練を受けているヨハネ共同体の姿です。 現代でも、同じような迫害はあります。 例えば、ロシア国内で今、本当のことが見えるようになって、プーチンを批判し始めたら、その人は瞬く間にロシア社会から迫害され、追放されてしまうでしょう。 命を奪われるかもしれません。 この世的には大変な不幸ですが、実は深い所で、その人はイエス様に出会っているんですね。

四旬節も後半に入ります。 復活徹夜祭で洗礼を受けるために、世界中の教会で洗礼志願者の準備が進められています。 洗礼とは、「新しい人」として生まれ変わることです。 その人の中で、神様の創造の御業が完成される瞬間です。 それまで目に見えなかった真理が、はっきり見えるようになる時です。 洗礼志願者だけではなくて、すでに洗礼を受けた私たちはみんな、神の子として完成されています。 本当に大切なこと、神様が望まれることは何か、それをはっきり識別することができるはずです。 私たちはもう、闇から救い出されて、光の中を歩んでいます。 それは、矛盾だらけのこの世との戦いです。 洗礼を受けた後も、つらいことは続きます。 でも、その試練の中で、私たちの魂は浄(きよ)められて行くのです。