2023年4月8日(土) A年「復活の聖なる徹夜祭」

2023年4月9日(日) A年「復活の主日日中」

-> 朗読箇所参照

主任司祭 山口 一彦

【開祭の挨拶……日曜日のみ】

皆さん、主のご復活、おめでとうございます。 二千年前の今日、この日曜日の朝、イエス様はお墓から姿を消して、復活の命、神様の永遠の命に入り、今も生きておられます。 今この時も、私たちの目には見えませんが、私たちと共においでになります。 この喜びのうちに、今日のミサをお捧げいたしましょう。

【説教】

(復活徹夜祭のみ……皆さん、主のご復活、おめでとうございます。 )以前、ある神父様から、こんな話を聞いたことがあります……「洗礼を目指して勉強していたある男性が、教会に来なくなってしまった。 その人は最後にこんな言葉は言い残した……『死んでも3日目に復活することが分かっているなら、私だって死ぬことができます』」……皆さんは、この言葉をどう思いますか……「死んでも3日目に復活することが分かっているなら、私だって死ぬことができる」……この人は、聖書で一番大切なことが、理解できなかったんですね。

復活徹夜祭で読まれたマタイ福音書には、天使のこんな言葉があります……「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。 かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」……この「復活なさったのだ」という日本語訳は明らかに間違っています。 聖書の元の言葉ギリシア語では、復活するという意味の「エレイロー」という動詞の受動態、受け身の形になっているんですね。 つまり「御父によって復活させられた」……これが正しい訳です。 イエス様はご自分の力で復活したのではありません。 御父の力で、復活させられたんですね。 ここはとっても大切なところなので、何度でも言いますね。 イエス様は、神の子であることを、ご自分から捨てたんです。 ただの人間となりました。 ですから、自分で復活する力なんて持っていませんよね。 全ての人の罪を独りで背負って、最も罪深い、最も惨(みじ)めな人間になったんです。 そして、父である神様から遠く離れて、地獄の苦しみを受けました。 それが十字架です。 ここで言う地獄の苦しみとは、肉体的な苦しみ以上に、精神的な苦しみです。 本来、御父と共に強い絆で結ばれている方が、無限大の罪を背負うことで、命の源である御父から遠く離れてしまいました。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、本当に地獄の苦しみから絞り出された叫びなんですね。 ですから、イエス様はご自分で立てたスケジュール通りに、まるで決められた台本通りに展開するお芝居のように、十字架につけられただけだ、なんて考えてはいけません。 イエス様の十字架刑は、そんなに生易(なまやさ)しいものではありません。 だからこそ、イエス様の十字架は、私たちの罪を償う力を持っているんですね。 私たち人類は、絶え間なく罪を犯し続けてきました。 本当なら、私たちが神様から遠く離れてしまうはずなんです。 私たちが、死の世界、闇の世界に入らなくてはならないんです。 そういう私たちを、イエス様の十字架は救い出すことができます。 私たちが味わわなければならなかった地獄の苦しみを、イエス様が代わりに苦しんでくれたからです。 マタイ福音書では、天使がお墓の入口を塞(ふさ)いでいる大きな石を脇に転がしちゃいました。 これは、イエス様と一緒に私たちも、死の世界から解放されたんだ、ということです。 天使は石の上に座ります。 これは、イエス様の愛の力が死の力に勝ったんだ、ということです。

イエス様が十字架の上で亡くなった瞬間、エルサレム神殿の大きな垂(た)れ幕(まく)が真っ二つに裂(さ)かれました。 この垂れ幕は、至聖所という、神殿で最も聖なる場所を隠していた垂れ幕です。 神様の世界と人間の世界を隔てていた垂れ幕です。 それが真っ二つに裂かれた、というのは、イエス様の死によって神様の世界と人間の世界が繋(つな)がったということです。 そして今日の場面で、墓石が取りのけられていたというのは、この世と死の世界とが繋がった、死の世界の人たちも、この世の人たちと一緒に神様に救われた、ということです。 神様の世界、この世の世界、そして死の世界、この三つの世界が一つに繋がりました。 これで、神様の創造は完成です。

徹夜祭で読まれたマタイ福音書では、マグダラのマリアたちが突然イエス様に出会います。 その時、イエス様は「おはよう」と挨拶します。 すごく日常的な、ふつうの挨拶ですね。 今、私がお話ししたように、神様の創造が完成した瞬間、三つの世界が繋がった瞬間です。 そんなものすごい出来事が起きたのに、イエス様と女性たちとの出会いは、普通の日の朝のように、ごく自然で平凡な出会いです。 復活の神秘、神様の御業の力は、私たちの日常生活、私たちのふつうの生活にこそ現れる、ということですね。 ですから、復活の喜びを私たちが実感できるのは、私たちが肉体の死を迎える時だけなんだ、なんて考えてはいけません。 イエス様の物語の舞台となったパレスチナを始め、北半球の国々では、毎年春に復活祭をお祝いします。 これは偶然ではありません。 畑や田んぼや野原は、冬の間、枯れ果ててしまいます。 茶色くて、かさかさに乾燥して、淋しい景色になってしまいます。 でも、復活祭の時期になると、新緑の中で花が咲いて小鳥が囀(さえず)って、生き生きとした姿を取り戻します。 そこには神様の力が現れています。

私の父は、7年前の夏、85歳で亡くなりました。 でも、この世からいなくなった後の方が、なんだか父といつも繋がっているように感じることがあります。 何かで困っている時、悩んでいる時、心の耳を澄ましていると、どこからか父の語りかけを感じることがあります。 皆さんにも、そういう経験、ありますでしょ。 信仰と祈りによって私たちは、日常生活の何の変哲もない、ごくふつうの場面で、復活の神秘を突然感じることができます。 その経験が、私たちの信仰を強くしてくれます。 肉体の死の向こうにあるイエス様との出会いを、確かに信じられるようになります。 イエス様が語った「おはよう」という言葉は、ギリシア語で「カイロー」という言葉です。 この言葉のもともとの意味は、「喜ぶ」という意味なんだそうです。 ですから日本語に訳す時、一番近い言葉は「おはよう」ではなくて、「ごきげんよう」ですよね……「みんなごきげんだね、みんな元気だね、みんな喜んでいるね」……そんな感じの言葉です。 ロシアに侵略されているウクライナや、大震災に見舞われたトルコ、シリアを始め、世界中の様々な所で、今も悲惨な状況が続いています。 でも、どんなに困難な場面であっても、いや困難だからこそ、日常の小さな出来事の中に、神様からの復活の力が働いていることでしょう。 皆さん、毎日の生活の中に小さな命の喜びを見つけましょう。 大自然との命の繋がり、そして生きている人だけではなくて、亡くなった人との命の繋がりも感じてみましょう。 そういう日々の小さな喜びが、復活の命に繋がっていきます。